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われわれはただの生を肯定しえるか?

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今日もブランケットのかばんを作りながら、、、というか
「本」を読み進めながら、かばんを作っていた。。。

なんでこんなに吸い込まれるように読みふけってしまうのか...

それは、本書が単にこの世界(外)を覆っているものについての物語でなく、
わたし自身が子どもの頃からずっと内包し続けているものと密接に
繋がっているからだということが、今日、はっきりとわかった。
そういう意味で、わたしにとって、いま読むべき本であったと思う。


以下、本書より一部書き起こして紹介します。(しつこくてすみません...
おそらく、わたし以外にも腑に落ちる女性(男性/子ども)はいると思います。


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「われわれはただの生を肯定しえるか?」


(上略)
われわれは、これまで「世界」と「地球」を認識論的に分けて考えてきた。
前者は、政治/社会/経済的な意味での全体性を表し、後者は主に環境的な
条件を指し示した。だが、諸問題の大きさとそれらの連関が自明化することに
よって、われわれ万人が、同時にひとつの「世界=地球」に直面している感を
共有しはじめている。

言い換えると、われわれは同じ一つの「共棲体」として存在していることが、
危機的に露呈されはじめた。逆説的にも資本主義の開発超過によって、
「コモン」の究極的形態としての「世界=地球的富」とその共有以外に、
何の至上価値も存在しえないことが自明になりつつある。

その「富」とは、端的に言って「社会的多様性」と「生体的多様性」である。
この限りある富を、一握りの国家と企業が統制し続けることはできない。
われわれもまた、それらが作り伝播してきた「価値」に従って生き続ける
ことはできない。好むと好まざるとにかかわらず、遅かれ早かれ、
われわれみなが生き方の転換を迫られるだろう。
これまで先進国的反映を存分に楽しんできたわれわれも、
それとは異なった新しい価値を見いだしていかねばならない。

そこで問題は、そのまだ見ぬ価値の転換点に「不運」あるいは「不可抗力」以上の
「肯定的な契機」を見いだしていけるか、である。
おそらくそれは「生」の問題にかかわっている。
そしてそれは「社会的多様性」と「生体的多様性」に基づいた民主主義、
あるいは「あらゆる生の民主主義」の可能性にかかわっている。

クロポトキンをはじめとする十九世紀アナキストたちは、社会ダーウィニズムが
発展の原理とした「競争」に対して「相互扶助」を提起した。二十世紀の人類学者
グレゴリー ベイトソンは、広義のダーウィニズムが「生存の単位」と見なした
「種か亜種か」に対して、「環境および生体組織と環境の関係」を「生存の単位」
として据えた。これらの原理は、共にいまや「夢想的理想論」どころか
「不可避的認識」になり変わった。
これは「人類的危機」だが、同時に「人類的覚醒」でもあるのだ。

この「覚醒」が促しているのは、われわれが「利潤」を元にした「生」から
どこまで脱却しうるか、ということである。
例えば、ひたすら「利潤」を求める生は、間違いなく死にゆく一過性の生としての
己の存在を肯定しえない。

それは資本の自己増殖運動とどこまでも一体化し、「種」あるいは「国民国家」
さらにまた「家系」という形で「自己」を永続させようとする。
なぜ、一部の権力者たちや資本家たちが世界=地球をかくも食いつぶすまで、
自己保存/自己増殖にはしるのか、という謎はここにある。
猿/ライオン的比喩で言うと、彼らはほとんどの場合、自分の家族と種の繁栄のみに
超過的な責任を負い、そのためなら他者を破壊することを厭わない「群れのボス」
あるいは「超男性(alpha male)」以上ではない。

われわれは、このような指導者による統率から限りなく遠い、
より平等主義的な生の組織化のモデルを発見していかねばならない。

(下略)

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音楽に救われることはあっても、
読書に救われるという経験はあまりに少ない。

そういう意味で、わたしは経験不足だ。
本を読もう。
by cotomono | 2011-10-16 02:26
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