a common language of the universe

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ああしてやろうこうしてやろうといった思いから離れた状態で、
まるで心をインクルージングしたカラダに委ねるように
カタチを作ったあと、完成したものをじっと見つめていると
時々、声のようなものが聞こえてくる瞬間が確かにあります。

そんなとき、わたしは無意識のうちに
宇宙の共通言語をダウンロードしてるのかもしれません。
というか、宇宙の共通言語を翻訳するために
ただ、カタチ作っているのに過ぎないのかもしれません。

*ちなみに「カタチ」をカタカムナで読むと、
「力が分かれて凝縮したもの」→「広がり」となります。


:::::::::::::::::::::::::::


結論から先に言っておこう。
図形による集合意識の活性化とは、一つの手段にすぎない。
図形的なアプローチ以外にもいくらでも方法はある。
しかし、どんな方法を用いようとも、
その根底には必ず図形が介在していることを知りなさい。

幾何学的なものには普遍的な宇宙の法則がある。
宇宙の構造を理解するうえで、図形によるアプローチが最も純度が高く、
誤差が少ない。
時にさらされても輝き続け、劣化を最小限に抑えられ、
さらに、明晰な状態で無駄なく最短距離を進むことができるのだ。
いかに図形を正確にダウンロードできるか、いかに効率よく描くことができるかが
問われている。

だが図形をどのように翻訳するかという段階で、人の意識が介在してしまうだろう。
なぜなら、現在、地球上で使われている言語とは相対的なものであり、
数字を用いた計算式のように絶対的な答えに至ことはない。
ハートの領域で織りなされる魂の言語を使わないかぎり、時空を超えて誰にでも
通用するというわけではないのだよ。きみたちは、意識を介在させないように
ゼロポイントに入り、無色透明な状態で翻訳作業にあたったが、それでも
言語が持つ曖昧さや多様性、そして、それぞれの言語の壁というものがあるのを
知りなさい。たとえどのような言語を使っていても、1+1=2であり、
平面に描かれた三角形の内角の和は180度になる。

数字や図形、幾何学的なパターンは宇宙の共通言語である。いづれ地球の民も
宇宙の共通言語をあやつる日が来るだろう。今はそれまでの過渡期と考えたまえ。
ただし、ハートの領域で共鳴させなければ、図形は単なる記号に過ぎない。
魂の言語の指針としてこれらの図形を使うことだ。幾何学的なパターンこそが、
夢のネットワークシステムに用いる夢の言語であり、すなわち創造の言語なのだ。

さらに、次のステージの話をしよう。最も重要なことは、アクセスコードの図形、
すなわち星の扉のその一つひとつの意味に拘泥することなく、全体を俯瞰し
パターンを発見することだ。解釈の違いや、その根拠を言い争っていても所詮
*人間レベルの話である。星の扉を通じて、地上に生きる自分の視点と上空から
地球を俯瞰するもう一人の自分という二つの視点を束ねることが大切なのだ。
どちらか一方に固執することなく、包括的な視点に立つことだ。
そして360度の
球体の視点を獲得することができれば、図形を介して多次元的な意識に到達できる
だろう。

それには、宇宙にあまねく拡がる普遍的なパターンを見つけることだ。
木を見て森を見ずという視点に陥ることなく、地上の視点と大空を舞う鳥のような
視点を統合し、木を見て森を見ること。顕微鏡と望遠鏡の双方を使い、
ミクロとマクロを包括的にとらえ、宇宙的な視野を獲得したまえ。


ー「宇宙の羅針盤(下)/辻 麻理子」 より一部抜粋



この本を読んでいたら久しぶりにこれを観たくなりました。
ちなみにタイトルのPowersとは「力」の意味ではなく「*べき乗」という意味で、
「10の力」ではなく「10のべき乗(10n)」という意味です。
Powers of Ten / Eames

(補足で、、)
*べき乗」とは、同じ数をいくつも掛け合わせたもの。
(2のマイナス2乗)は(2)を(マイナス2回)掛け合わせたものだが、
数学の約束によって(2のマイナス2乗)は(1/2)を2回かけたものと定義され
つまり1/4となる。


(補足で、、)
*人間を古い辞書で引くと、「俗二誤リテ、人」とあります。
人間と人とは全く別もの、人間には体もなければゲノムもない。
ところが広辞苑(人体)には「人間の体」とあります。
「人」の体がどうして、人間の体になるのか?
別の何かが、人間になるのか?

これまた不思議ですね〜(笑
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# by cotomono | 2016-07-08 22:44 | Comments(0)

部分であり、全体であり。

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さて、展示会用の制作まっただ中ではありますが、
ある方に教えていただいた「ホロン革命」を読了。


目次をみて、これはきっと面白い!と直感でAmazonで古本をポチリましたが、
さすがにちょっと難解でページをめくる手が重くもなりましたが、自分がなんとなく
感じていることが要所要所で言語化してあり、あぁ、こういうことか!と、
ヒザを打ちたくなる瞬間もあって、言語化することがすべてではないし、
そうすることで失ってしまうものもあるけど、やはり読書とはタイミング。

ものづくりのようなことをやっていると、そのエゴの極みのような
行為にうんざりしてしまうこともあるのですが、わたしのカバンにも
いまだ読めぬ航海指令書が入っているのをなぜだか知っているので、それに
書かれているであろう、宇宙の神秘の一端に触れることができるかもしれぬ
途方もない一瞬のために、今日もただ手を動かすしかないのかもしれません。


ちなみにホロンとは、ギリシャ語で「全体」を意味する holos に
添字 on を付けたもので、on は proton(陽子)、neutron(中性子)のように
粒子または「部分」を暗示する、ケストラーによる造語です。

以下、本書最後の一節をご紹介します。
これを読んでピーンときた方は、ホロン革命、オススメします。


:::

〜高次のリアリティからの信号〜

わたしはこの本を、ある種の信条で締めくくりたいと思う。
発端は40年以上前のスペイン市民戦争までさかのぼる。
1937年、わたしは死刑執行に怯えながら、スパイ容疑者としてセヴィルに
あるナショナリストの刑務所で数ヶ月を過ごした。その間、独房のなかで、
わたしはある種の体験をした。それは神秘主義者が言う「大洋の感覚」に
近いものであった。わたしはそれを自叙伝的な話のなかで説明しようとした。
そしてそれを「窓ぎわの時間」と読んだ。説明はいくぶん散漫だが、まさに
以下の文は「不可知論者の信条」を反映している。

「窓ぎわの時間」によって、わたしは高次のリアリティが存在し、それが
存在に意味を与えているという確信でいっぱいになった。
後にわたしはそれを
「第三次のリアリティ」と呼ぶようになった。感覚的に認識される狭い世界が
第一次を構成していた。そしてこの知覚的な世界は、原子、電磁場、湾曲した空間
など、我々には直接知覚しえない現象を包含する概念的世界でつつまれていた。
この第二次のリアリティは、つぎはぎの感覚的世界のギャップを埋め、それに
意味を与えていた。

同様に、第三次のリアリティは第二次のリアリティを包み、中に浸透し、それに
意味を与えていた。第三次のリアリティには感覚のレベルでも、あるいは概念の
レベルでも説明のつかない、それでいて、原始人の考えていた丸天井の天空を
一気に貫いて入ってくる霊的な流れ星のように、時折、そうしたレベルに侵入する
「オカルト」現象が含まれていた。概念のレベルが感覚のレベルの幻想と歪みを
あばきだしたように、「第三次のリアリティ」は、あの時間、空間、因果性の
正体をあばきだした。自己の孤立、分離、時間的空間的制約は、ひとつ上の
レベルの幻想に過ぎなかったのである。第一次の種類の幻想を真に受けたら、
太陽は毎晩海に溺れ、目の中のホコリは月より大きくなる。同様に、概念的世界を
究極のリアリティと錯覚したら、世界は同じくらい馬鹿げたものになる。
皮膚で磁力を感じることができないように、究極のリアリティを言語的に理解
することは、望むべくもないのだ。それは目に見えぬインキで書かれたテキスト
だったのである。


わたしは、この例えをあれこれいじりまわすのが好きだった。船長がポケットに
封印された航海指令書を入れて海に出る。その指令書は、公海に出て初めて開く
ことが許されている。彼は不安が解消されるその瞬間を待つ。しかしその時がきて、
封を開けてみると、そこには目に見えない指令文しか入っていない。

どんな化学処理をほどこしても見えるようにならない。が、時折、単語が見えるようになったり、子午線を示す数字が見えたりする。しかし、また消えてしまう。
船長には指令文が正確に読み取れない。指令文に従ってきたのか、任務を失敗したの
かもわからない。しかし、ポケットに指令書を持っているという意識があるため、
それを解読できないにもかかわらず、船長の考えと行動は、遊覧船や海賊船の船長の
それと違う。


また、こんなふうに考えるのも好きだった。宗教の創始者、予言者、聖人、占師たちは時折、目に見えないテキストを一部分読むことができた。しかし、その後、彼らは
あちこち文を付け足し、脚色し、飾り立てたから、もはや、彼ら自身にもどの部分が
本当なのかわからなくなってしまった。

- ホロン革命 / アーサー・ケストラー




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# by cotomono | 2016-06-05 16:43 | Comments(0)

展示会のお知らせ

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6月と8月に展示会を開催いたします。
お知らせにご協力いただければ幸いです。

::::::::::::::::::::::::::::::::

キモチをカタチに...
Cotomono EXHIBITION


Tibi Gram(福岡)
6/11 sat → 6/19 sun
orange(熊本)
8/20 sat → 8/28 sun


手染めのカバンやシルクスクリーンプリントを使ったオリジナルテキスタイルの
カバンなど、いろいろなキモチをいろいろなカタチにしました。
イラストレーター ムツロマサコさんとのコラボカバンも登場します。


【場所と日時】
Tibi Gram
福岡市博多区古門戸町3−12やま利ビル102
092-292-6696 www.tomoichiro.com
2016年6月11日(土)〜19日(日)
11時~20時・休:6/13(月)
作家在所日:平日は17時〜20時・土日は終日在所します。

orange
熊本市中央区新市街6−22
096-355-1276 www.zakkacafe-orange.com
2016年8月20日(土)〜28日(日)
12時~19時(21日(日)と28日(日)は17時まで)
作家在所日:8/20.27.28(予定)



*熊本地震の影響により、開催が困難な場合は
中止とさせていただきます。何卒ご了承ください。


【すべてのお問い合わせ】
cotomonomonoco(アットマーク)gmail.com

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今回、久しぶりに手染めのカバンを作りました。
上の写真のターコイズブルー、いちばん好きな色です。
なぜ、ターコイズブルーに染めたのかは、
また後日、あらためて書いてみようと思います。
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# by cotomono | 2016-05-18 21:20 | Exhibition | Comments(0)

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ここ最近、お友達に教えてもらったあるお水を飲んでいます。
といっても、特許やブランドが付いているわけでなく、
普通のペットボトルのお水よりもはるかに安く、誰でも買えてすごく美味しい。

子どもの頃、山からの井戸水で育ったせいか水道水やペットボトルのお水が
どうしても身体に馴染まず、水をそのまま飲むことをしなくなっていましたが、
久しぶりにお水をそのままガブガブと飲む美味しさを楽しんでいます。

このお水の原理を簡単にいうと、何か特別なものを足したり、
不純物を除去したりしているわけではなく、お水にある光を当てて
水そのもののエネルギーを高めている、ただそれだけなのです。


ではその光とは何かというと、人間の細胞の中に存在している「ある名前」をした
微生物を活性化する周波数の光であり、それを当てることで水のエネルギーを
高め、そのお水を飲むことで身体の免疫力を上げるという仕組みだそうです。

ちょっと極端なことを言うと、何も特別なことをしなくても元々人間の身体に
備わっているものに光をあて、それが活動しやすい環境を整えてあげさえすれば
病院も薬も要らなくなるという話です。

たぶんSTAP細胞の小保方さんがああいうカタチで潰されてしまったのは、
彼女の研究が最終的に「そこ」に行き着きついてしまうことを、
真実を知る、ある人たちが恐れていたからではないでしょうかね?
まぁ、憶測であれこれ書く話ではありませんが、参考までにこちらを。


そんな、光なんてって思われるかもしれませんが、
わたしは、わたし自身の中にある「光」の存在を信じているし、
これまでどんな困難の中にあっても自分を救ってくれたのはその光であったし、
いま現在も、その光に向かって素直に語りかけるようにカバンを作っています。
展示会のDMに唯一記している「キモチをカタチに...」のキモチとは、まさに
「気」であり、それに光をあてエネルギーを高めたものがわたしの場合は
カバンというカタチとなって現れているのです。

わたしたちは物質体であるまえに、意識体であり、エネルギーなのです。



うまく書けませんが、原理はすべて同じなんだと思うのです。
この世界もわたしたちも何も不足してないし、元々すべて備わっているのです。
ただそれが生かすことができないような仕組みになっている。

その仕組みを解き明かす鍵は、わたしたちひとりひとりの中にあって
その鍵穴に光を当てることができるのもまた、わたしたちがもともと持っている
光なのではないでしょうか。

このお水を飲みながらそんなことを考えていました。
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# by cotomono | 2016-05-15 22:09 | Comments(0)

熊本の灯

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熊本を襲った大きな地震から2週間と少しが経ち、ようやくここに何かを書く気が
湧いてきました。2回目の本震は福岡もだいぶ揺れたとはいえ、日々の生活が失われ
るようなことは何もないのに、自分の大好きな人や場所が傷付くのはこんなにも辛い
ことなのだなと思い知らされる日々でした。

かといって支援らしきものは何もできず、地震からしばらくはひとりでいると
どうにも苦しかったのですが、そんな時は近しい仲間や友人たちと小さな音楽や
たわいもないおしゃべりを介して、同じ思いを共にすることができて本当に
助けられました。


そして今日ようやく、展示会でもお世話になっているorange・橙書店の久子さんと
電話でお話しができて、久子さんの声を聞いているうちに自分の心を縛ってたものが
急にほどけてしまい、励ますつもりが最後はこちらが泣いてしまいました。。

お店の状況について、わたしがここに書けることではありませんが、
気骨ある文化の源泉ともいえる熊本の街にとって、そして小さな声しか持つすべ
のない無数の名もなき者たちにとって、あの場所は、かけがえのない灯であり、
そして、その灯とおなじ光や温もりが自らの中にもあることに気づいたとき、
たとえ暗闇のなかにあっても、その灯で再び、自分の中にある光に灯を点す
勇気が湧いてくるような、そんな場所なのです。


うえの写真は、そんな場所で生まれた熊本の雑誌『アルテリ』

2月に川内倫子さんの写真展でorangeに行ったとき、まだ本屋さんに並ぶ前の
出来立てホヤホヤの『アルテリ』を久子さんに見せてもらったのですが、
子どものように嬉しそうにアルテリのことを話す、その時の久子さんの笑顔が
ほんとうにキラキラしていて、こっちまで嬉しくなりました。その時にちょうど
この雑誌の影の立役者?である作家の渡辺京二さんもいらしていて、
特別にサインもしていただいたという、ちょっと自慢の一冊です。。。

読んですぐ、大事な友達にも読んで欲しくて貸していたのですが、
地震のあと、どうしても手元に置いておきたくて一旦返してもらいました。。

石牟礼道子さん、渡辺京二さん、伊藤比呂美さん、坂口恭平さんなど、
作家陣が本当に素晴らしいのですが、長らく石牟礼さんの番記者をされていた
という浪床敬子さんの「石牟礼道子の歌」は、いつか『苦海浄土』を読める日が
わたしにもくるだろうか、、と胸に響くものがあり、石牟礼さんを知らない人にも
読んで欲しいなと思いました。

そして、久子さんが書かれた「弱者の文学」は、ここに全文を書き写したいくらい
何度も読み返しているのですが、5年前、初めて橙書店(orange)を訪れた時に、
ここで展示会をさせてもらいたいと強く感じた、自らを救うことで他者をも救うこと
のできる、誰のものでもないけど、誰のものでもある「勇気」のようなものを、
「弱者の文学」を読んだ後に、またもらった気がしました。

熊本の灯に、励まされる日々です。
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# by cotomono | 2016-05-01 21:38 | Comments(0)

空白

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さて『ガイアの法則』を読了。この本を貸してくれた友人がしきりに
すべては「スピン」だから、と言っていた理由がはっきりわかりました。
読書にはタイミングがあるのですべての人におすすめはできないけど、
わたしにとってはまさにジャストインでした。


不安や恐れにかられ、
空白を埋めようとしないで。
空白は、空白のままに持っておいて。
空白こそが、スピンする宇宙なのだから。

(以下、本書より一部をご紹介します)


シュメール(文明)では、人間の思念は神から与えられるものと考えられていた。
与えられた思念である以上、それは必ず宇宙のリズムに合致するのだ。
それを受け取るためには、受け取るための魂の空間を用意しなければならない
というのが、我々神官の思考への認識であった。

そうして用意された空間に、節目の時には必ず思念が舞い降りるのだ。
そしてその思念は次のサイクルに向けて強い創造の力を発揮するのである。

自ら作り上げた思念によっても物事は成就できる。
しかしそれらは長期的には宇宙のリズムを壊すのだ。

思念というものは、心が空白でありさえすれば、
必ず各人に最も必要なものが与えられるようにできている。
自ら作り上げるものではないことを、あなた方は知らねばならない。
それを受け取るべき時の中心点が、節目の時なのだ。

宇宙の星々は自らの主張のためにスピンするのではない。
星々は中心の力にうながされ、その力に自らをゆだねることによって為される
スピンという自己完成の悦びに打ち震える。
宇宙の存在は、波に自らをゆだねるサーファーのようなものだ。
いかにゆだねられるかですべては決まる。

宇宙は、必要なところに、必要なだけの、必要な配置を与える。
その計算に狂いはない。しかしながら、個人の意志で何かを目ざし、
個人的思念の力でそれを実現しようとする者であふれる時、
それはすでに思念の次元に摩擦と闘争を生み出すのだ。


現代のあなた方の社会は、様々な世界的問題を抱えて、
あなた方はそれを解決するのは至難の技だと思っている。
しかしそれは、過去を捨てようとせず、
過去にしがみつこうとしているから至難に見えるだけだ。

死と言えば、あなた方は恐怖を感じるだろうが、
私たちシュメール人はそれを成長へのステップと考えていた。
魂は、小さな死や大きな死が繰り返されることによって進歩を遂げる。

冬至や夏至、満月や新月が来るたび、魂は小さな死を迎え、
古い何かを捨て、新しい何かを誕生させようとする。

そうした魂の躍動に、現代のあなた方は鈍感になってしまっているが、
しかし、あなた方の魂にもその躍動のリズムが確実に脈打っているのだ。






さて、ドイツでカバンをお取り扱いしてもらえることになったお店から
今回から正式なルートを通してやりましょうとご提案をいただき、
ドイツの友人ピーターにサポートしてもらいながら色々と準備を始めています。
(前回はあくまでも販売を目的としない展示会の延長線上で起きたラッキー
かつイレギュラーな動きだったので、、、)

正直、関税が20%近くかかるものが、そうやすやすと動くとは思えないけれど、
これから10年は海外で動かしていけるようになりたいなと思っていたので、
これまたジャストなタイミングでまた新しいサイクルの軌道に乗れたことに
感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう!


相変わらずのノロノロペースですが6月には展示会も予定しており、
さてさてどんなカバンがでてくるやら、自分でも楽しみです☆
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# by cotomono | 2016-04-03 18:16 | Comments(0)

What is the time?

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もう毎日毎日時間のことばっかり書いて、この人アタマくるってるんじゃ?と
思われてそうですが...(笑)どう考えてもこの世界はくるってしまっているので
こちらも本腰入れてくるっていかないとね〜と超真面目に思う所存です。
これからはもう正常バイアス働かせているバアイじゃないですよー、みなさん(笑

まぁ、それは冗談として...(ほんとは冗談なんかじゃないけどね)
過去→現在→未来という直線的な一方向の時間の概念が崩れることで、
この物質的な世界を覆っているたくさんの「思い込み」という観念の大枠が外れ
もっと根源的なタマシイの骨格のような、宇宙の法則ともいえるようなものが
浮かび上がってくる気がしています。


そんなことを考えながら、お友達に貸してもらった去年Eテレで放映されたという
「時空を超えて『時間』は存在するのか?」という番組のDVDを昨日再び観直して
いたことろ、いま、自分が感じている「時間」についての感覚はまさにコレだ!と
いうのが目に飛び込んできたので、思わずひゃっほーと小躍りしてしまいました(笑

残念ながらYoutubeに映像がアップされてなかったのですが、ご親切にも
全編をテキストでアップしてしてある方がいたようで、それを一部抜粋でご紹介
させていただきます。

どうやらわたしが感じている感覚は、
物理学用語では「ひも理論」というようです。

そしてたぶん、意識は新たに作ったり開いたりしていくのではなく、
すでにあるものを拡張し、フォーカスできるチャンネルを増やして
いけばいいだけなのです。


(以下、テキストより抜粋)

>>>>>


謎はまだあります。
昨日今日明日という前提を揺るがすような問題です。

時間は横に流れているように思えます。
しかし、もし上下にも流れているとしたら?
時間にも空間のように私たちには見えない
複数の次元が存在するとしたらどうでしょうか?

スティーブ・ワインスタインは複数の次元が存在すると考えます。
更にそこに電子や光子などの素粒子が存在するのではないかと推察します。
ワインスタインは物理学者哲学者そしてプロのミュージシャンです。
ワインスタインの時間の考え方はひも理論から発展したものです。

ひも理論では空間に私たちには見えない4次元以上の空間が存在すると考えます。
ワインスタインはそれが時間にも当てはまるのではないかと考えました。

「空間の次元を自由に増やせるのであれば
時間の次元も増やせるのではないかと考えたんです。
それまで時間はずっと1次元的な「線」と捉えてきました。
しかし2次元なら線ではなく「形」になります。

ギターのケーブルは遠くからは1次元的な線のように見えます。
でも近くで見ると別の次元があるのが分かります。
円周があり円筒のような形です。
私たちに見えている次元は別の方向に広がっているのかもしれません。」

ワインスタインは電子や光子などの素粒子は
2つの「時間の次元」にわたって存在していると考えます。
素粒子を表す場合、一般的に時間軸のどこにあるかを説明します。
この(ギターの)ピックが素粒子だとすると
「ここ」とか「ここ」にあるというわけです。

図にする場合は縦軸が時間ならそこに記していきます。
時間にもう一つ次元があるとしたらどうでしょう?
その次元がギターのネックと直角にあると想像してみて下さい。
すると素粒子の位置は「ここ」だけではなく「ここ」や「こっち」にも
あるかもしれません。


>>>>>>

素粒子を「いま」に置き換えて、イメージしてみてください。
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# by cotomono | 2016-03-22 20:42 | Comments(0)

受け取る力

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昨日、着物やさんでお昼休みのお昼寝から目が覚めた直後、
ぼんやりとある人の顔が浮かんできたのですが、それからしばらくして、
その人が着物やさんを訪ねてきたのでちょっとビックリしました。

その人は数年前に着物やさんで一緒に働いていた子で、いまは結婚して子育て中。
ごくたまーに子どもを連れて顔を出してくれるのですが、いつもは事前に連絡して
から来るのに昨日はふらっと立ち寄ったそうで、彼女の意識がこっちに向かって
いたのを寝起きのわたしがキャッチしたのでしょうかね〜、ふふふ。。。


さて、前の日記に「時間」を空間として感知するようになったと書きましたが、
この状態を人に説明するのが本当に難しくて、分かりやすいように細分化して
伝えようとすると本質がぼやけるし、まぁでも感覚的なことだから仕方ないかぁ..
思っていたところ、またまた目に飛び込んできた記事にわたしの感覚にピタッと
フィットすることが書いてあったので、こちらより抜粋してご紹介します。

:::::::::::::::

あなた方は生命のエネルギーというものが、宇宙、大地の力によって生じるもので
あることを忘れている。あなた方は重力というものを、単なる物理現象としてのみ
認識しているがいずれ、生命エネルギー自体が、あなた方が重力と呼ぶ力の本質に
関わっていることを発見するだろう。


宇宙における存在のすべては、時空間における一つの統一体であり、
それぞれがより大きな時空の完全なる支配下にある。完全なる支配下にあるとは、
その恵みの下にすべてを流動させているということである。
しかし現代のあなた方は、時空から恩恵を受け取るあり方を見失っている。
それこそが、あらゆる摩擦(まさつ)の原因なのである。

あなた方は自分が築いた観念の領域にのみ生きており、
現実のこの宇宙から外れているからだ。観念的頭脳の作り出す領域とは、
あなた方の表層的意識が作り出す領域のことでしかないが、体感意識は宇宙に
つながることのできる領域であり、人間の本質にもっとも近い領域である。
つまり空間とつながるなら、あなた方はそれだけで完全なる存在なのだ。


:::::::::::::::::::::


ちなみにこの記事の元になっている「ガイアの法則」は以前から
お友達に薦められている本なので、そろそろ読むタイミング、
周波数があってきたってことかな?

あぁ、毎日ワクワクするなぁ。。。(笑
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# by cotomono | 2016-03-19 17:30 | Comments(0)

愛は観察可能な力

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さて、グレゴリオ暦でいうところの3月になり、あちこちで定例の挨拶のように
「あっという間にもう3月ねー」と時間が短いことを言い合う会話を耳にしますが、
わたしの時間の感覚は相変わらず増えていて、あちこちに時間がいっぱいある
感じがますますしています。

それで、こないだある人に、わたしが感じている「時間」について話したところ
「時間」はスパイラル(螺旋)構造になっていて、本当は過去も現在も未来も同時に
存在していることを話してくれました。

この感覚は方眼紙のグリッドが立体構造になっている図をイメージしてもらうと
すんなり入ってくるかと思うのですが、時間は同空間に無数にあって、ただ、
ラジオの周波数を合わせるように、「今」がどこにあるかだけなのです。
だからチャンネルを変えれば変えるだけ、無数の今の時間軸がある。

わたしが時間が瞬間的に膨らんだり、増えていると感じるのは
過去→現在→未来と当たり前のように直線上に流れていると思っていた
時間の概念が崩れ去り、時間を立体(空間)的に感知しはじめたからだと
思います。


さて、この直線的な時間の枠組みであるグレゴリオ暦を調べたこところ、
1572年に第234代 ローマ教皇グレゴリウス15世という人が新しい暦、
つまりグレゴリオ暦の導入を勝手に決めて1582年10月から実施されたそうです。

で、それ以降グレゴリオ暦は世界の標準時間として定着することになったわけですが
基軸となる世界中のみんなが時計の針を合わせるゼロ地点(磁場が強くなる地点)
がどこにあるかというと、イギリス・ロンドンのグリニッジ時計台なわけです。
そしてロンドンといえば金融イルミのみなさんや女王陛下のホームグランドであり、
ほんとよく仕組まれているなぁと感心してしまいました(笑

なので結果的にわたしたちが無意識に時計をみたり手帳に予定を書き込むことは
意図的にこの人工的な時間の流れであるグレゴリオ暦にチャンネルを合わせて
いることになってしまっているのです。

一年が12ヶ月に設定してあるのも考えてみるとおかしな話で、なんで
1ヶ月が30日だったり31日だったり28日だったり4年毎に29日の閏年を
作ったり、これって何だろう?と子どもの頃から不思議に思っていましたが、
試しに自分のカラダの周期である28日を365日で割ると13.035714...となり、
ほぼ13になります。

女性のカラダ周期は月の満ち欠けと同じと言われているので、
自分(のカラダ)を基準にすると1ヶ月は28日で一年は13ヶ月です。

ちなみにカタカムナで紐解くと、
「12」は、ルで「止まる・留まる」を意味し
「13」は、ムで「広がり」を意味し、永延に割り切れない素数であり、
「素数」は数霊「70」で調和そのものを意味します。


そして面白いことに、グレゴリオ暦を設定したグループのそのまた上の人たちは
現在も「一年=13ヶ月」の暦で生活しているそうです。
13日の金曜日という映画を作らせたりと、13を不吉な数字として避けるよう
にイメージを操作しているのは誰なんでしょうね?

まぁでも、そんな難しいことを考えなくてもこの古いシステムはお役御免なときが
近づいてきているので、気がついた人からその直線的な時間軸から離れて
自分の時間軸で生き始めればいいだけの話です。




直線的な時間が幻想であることや、時間と重力の関係をよく表現している
「インターステラ」という映画があります。

ネタバレになるので詳しくは書きませんが、ラストシーンに展開される
5次元を3次元空間に投影したシーンをみると、時間は直線(平面)ではなく
立体(空間)的なスパイラル(螺旋)構造であることがよく理解できます。
わたしは2回見ましたが、初めはストーリーを追うのに精一杯ですが、
2回目はいろいろと気付きがあり、何回かみるうちに時間と重力の関係についても
理解できると思います。


ちなみに今日の日記のタイトル「愛は観察可能な力(よ)」とは、
劇中、宇宙物理学の博士であるアメリアが感情を吐露した言葉です。
なんだか胸に響いたので、覚え書き的に書いておきます。
なぜなら観察とは客観的な(自分から離れる=理解する)行為だからです。



次々にロックが解除されるような日々が続いていて、
新しい扉が開くたびにカラダが軽くなる気がします。
そのうち重力もなくなっちゃうかもね。あはは(笑

あ、最後に「扉が開く」とさらっと書きましたが、
扉が開く原理は、内側と外側が同じ周波数になることで生じる現象で
扉が開くことは、扉の内側と外側が混じり合う、つまり「融合」を意味します。
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# by cotomono | 2016-03-06 15:12 | Comments(0)

「私」

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自分のことを名前で呼ばなくなったのはいつからだろう?
そして、自分のことを名前ではなく「私」と言うようになったのは?

はっきり覚えていないけど、幼稚園に行く頃にはもう自分のことを
「私」と呼んでいた気がします。いや、もしかしたらもっと早かったかも...
いわゆる自我の目覚めの頃にはすでに「私」になっていたのかも。

それから今日に至るまで、何の疑問も持たずに、
ずーと「私」で生きてきたわけですが...

仮にこの日記を書くのに「私」という表現を使わずに書こうとすると、
とても困るというか、正直うまく書けないわけで、
でも、心の中で何かをつぶやいているときには「私」という意識はなく、
こうして、他者(社会)に対して発するときに「私」がでてくるわけです。

ちなみに、私の意味を現在の辞書で引くと
「私」と「公」は相対関係にあることが記されています。


さて、ここからが本題です。

現在の辞書(例:広辞苑)の言わば親にあたる
古い辞書で「私」を引いてみると、現在使われている意味とは
全く違う意味が記されています。



「私」に限らず、古い辞書と現在の辞書を見比べると、明らかに現在の辞書は
本来の言葉の意味を割愛したり意図的に省略していて、それどころか
本来の言葉の意味(言霊)のエッセンスを消し去っている節さえあります。

では、いつ誰がなぜ、そうしたのでしょう?


例えば、よく「体を鍛える」という表現をしますが、
なぜ、鍛える必要があるんだろう?とずっと不思議に思っていたのですが、
「体」という字には、本来「劣る」という意味があるそうです。
ちなみに、旧字で「からだ」は、骨偏に豊の「體」であり、こうして見ると
あぁ、本来からだって豊かでありぜんぜん弱いイメージは湧いてきません。

劣ると意味付けされた字、「体」を使うことで、
現在、なにが生じているのでしょう?

それから、昨年12月に訪れた「あんでるせん」でマスターに言われた
「あきらめなさい」ですが、わたしはてっきり思いを断つ意味での「諦めなさい」と
思っていましたが、「あきらめる」の元々の語源は「明らかにする」だそうで、
「諦めなさい」と「明らかにしなさい」では文字通り全く意味合いが違うので、
翻訳するとあの時マスターは「あなたの感じていることを明らかにしなさい、
わかっている人は、わかっているから」と伝えてくれたのだと、謎がまたひとつ
解けたような気持ちです。言葉とはまさに言霊です。



そして、少し前に、名前について書きましたが、
人間がこの世に生まれてきてはじめにされるのが「命名」です。
自分には経験がありませんが、多くの人は子どもに名づけるときに、
辞書で字の画数や意味をみて決めているのではないでしょうか?


その辞書(言葉)が、意図的に書き換えられているとしたら...?



さて、本題に戻って、
古い辞書に記されている本来の「私」意味とは?

余談ですが、わたしは「私」という字が昔から好きになれなくて、
文字にするときは、なるべくひらがなで書くようにしていました。
もしかしたら、直感的に何かを感じとっていたのかもしれません。


なぜならば、「私」=「嘘つき」だからです。



写真はスヤスヤとお休み中のしらたま先生。
我が輩は猫である。うらやましいかぎりです。
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# by cotomono | 2016-02-17 00:14 | Comments(0)