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父と、父

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photo : misa shigematsu [STM]

今日もいちにちバタバタでくたくた...
早々に家に帰りつき、昨夜の豚汁を温めすぐごはんを食べたらしばし眠る。
ぷるると携帯で目が覚めると夜7時のニュースがはじまったばかり。
知らない番号だったので、誰かな?とでると父からであった。
(そういえば最近携帯かえたとかいってたな...)

「ありがとう!忘れてたけど、68歳になりました。」と嬉しそうな声。
そうだそうだ、きょうの誕生日に届くようにプレゼントを送っていたのであった。


1941年12月8日
パールハーバーという、忘れがたい日に生まれた父。
あらためて、父から68という歳月を口にされ、
なんともいいがたい気持ちになった。
定年したのが60だから、あれからもう8年もたつのか...


定年までずっと、高齢者施設というある意味、人間の終の住処で働きながら
家族のために尽くしてくれた父。
決して仲が良いとはいえない親族とともに仕事をしていくストレスと
ひとの命を預かるという重圧を背負い、定年までの約30年間、
一晩たりとも熟睡することができなかった父。

そのピリと張りつめた緊張感は、ときに家族を巻き込み
子どもだったわたしにとって父は、もっとも気の許せない存在であり、
どうしても好きになれなかった。面と向かって大嫌いと言ったこともある。
圧倒的な存在であることを盾にする父の理不尽な態度になんど歯向かい
お前だけは信用ならん!となんど怒鳴られたかしれない。

父にとってわたしだけは、
子どもながらに思うようにならない存在だったのかもしれない。
でも、けんかするたびの父との距離はすこしづつ近くなっていった気もする。
いま思えば、子ども時分、そうやっておいて良かった。
そうしなければ、現在もたぶん、父のことを理解できないままであったろう。


自分が30を越えた頃、
父がわたしの親になった歳に自分がなってみてはじめて、
それまで、親としてしかみえてなかったものが、
ひとりの人として父をみれるようになった。


父の父、明治生まれのわたしの祖父は戦後の焼け野原から豆腐屋で財を成し
当時まだ珍しかった高齢者施設を一代で創った。
死ぬ前になんとかという勲章をもらっていたほどの社会的成功者としての祖父は、
たぶん凄い人だったのだと思うけど、
そんな人を父にもってしまった子どもはさぞかし大変だったろう。
わたしにとっても、気軽に「おじいちゃん」と呼べる存在ではなかったし、
お正月などで親族が集まるさい、父が祖父のまえで緊張している姿をみるのは
子どもながらに辛かったし、痛々しく、かわいそうだった。


そういう、もっとも近い存在である人との関係がそうなのである。
「おとうさんは愛情がないのかもしれない」と子どもたちのまえで、
ぽつりとこぼした父の苦悩がどこからきているのか、
いまならわかる気がする。


父はたぶん、
父に本気でぶつかることなどできなかったのだろう...
その生涯で、いちどたりとも。


それでも、父はいう。
ご先祖さまに恥じないよう生きなければならない、と。

そうやって、父のなかに、父はいまもずっと生きている。
それは父にとって、揺るぎない道しるべであるからだろう。




ずっと、父のような生き方はしたくないと思ってきた。
親のひいたレールなんかに乗ることなんてできないし、
わたしはわたしを生きると、小さい頃から決めてきた。



でも、ふと思うのだ。


いま、わたしが少なからず社会(福祉)的なことにコミットしていきたいと思う、
そのルーツを辿れば、高齢者や障がい者という社会的弱者と呼ばれる人たちの
傍らにたってきた父の背中があり、その向こうにはたぶん、
祖父が生涯をかけてつくってきた道が続いている...



それは、
とても、たしかなことだ。



もう呼ぶことはできないけど、いまなら呼べそうな気がする。

「おじいちゃん」と。
by cotomono | 2009-12-09 01:03
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