7月に入り、博多のまちは「山笠」という一年でいちばん熱い季節を迎えた。
わたしはここに住んでまだ7年だけど、博多に、山笠のまちに暮らしている
ということはちょっとした誇りだ。
昨日は、着物やさんの帰りに奈良屋町にある仕入れ先に自転車で向かっていると、
箱崎浜のお汐井取りから戻ってくる男衆らを迎えるべく、大黒流れの長老たちが、
公道にでんっと陣取った「山笠」のまえで腕組みし、おそらくお偉方だけに許されて
いる長法被をまとい、颯爽と立っておられる姿は、もうしびれるというか圧巻。
元来、政治って、「政(まつりごと)」というくらいだから、
祭りは即ち、政治であり、われわれ共同体の在り方なんだろうな。
普段は個々でみえなくなっているけれど、祭りがあることで、
共同体としての存在(つながり)をみんなが暗黙のうちに再意識する。
それが400年も繰り返し続いているのだから、山笠はまちがいなく
博多のアイデンティティだろう。
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今日、いつもお世話になっている方のところへ寄らせてもらったところ、
つい先日、その方の近しい人がお亡くなりになっていたことを聞かせれた。
自ら、いのちを断たれたそうだ。
わたしは直接面識はなかったけど、間接的に知っていた人物であり、
とても感性豊かな表現をされていた。
わたしとほぼ同じ歳でまだ若く、奥様と幼い子どもさんを残し
逝ってしまったそうだ...
その方と、しばらく死について話したあと、家に戻りご飯を作りながら
無償に、生きなければと思った。
死は強烈に生である。
わたしのなかの「いのち」が直感的にそう反応したのか、これまで
ぼんやりさせてた、これから半年先の計画を一気に考え行動にうつした。
食べて生きていくための行動。考えるとは、生きのびるための対策を練ること。
だってわたしは生きるためにつくっているのだから。
やることがあるから、生きているのではない。
ただ生きるために、やるべきことがあるのだ。
そして、わたしのいのちは、わたしだけのものではない。
あなたのいのちも、あなただけのものであるはずもない。
生きよう。
ともに、生きよう。